子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの

子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの

 

過去にあった二つの出来事を通して学んだことをご紹介したい。

 

ある日道端で…

3年前くらいだったか、正確な月日は覚えていないが、、、

 

 

ある日道を歩いていると、前をお爺さんが歩いていた。

髪は完全に白髪で、杖をつきながら歩いていた。

 

 

しかし、そのスピードが遅いこと山のごとし!Σ(・□・;)

あまりにもゆっっっっっっくり進んでおり、1m進むのに10秒くらいかかっていた。(時速0.36km!)

当然スタコラ歩く自分は、その横を追い抜いて駅に向かった。

 

 

通り過ぎてからふと思ったが、あのお爺さんが駅に向かっていたとして、

「駅に着くまでに、どれくらい時間がかかるんだろう…」(‘Д’)

と他人ながら心配になってしまった。

今日中に駅にたどりつけるだろうか。。。というくらい。

 

 

自分には師匠がいるが、その時師匠の言葉を思い出した。

 

「若い日の1日が、年を取ってからの1000日よりも 多くのことができる。

若い日の1日を遊んだら、年を取ってからの1000日を遊んだことになる」

 

この言葉を聞いた時は、正直よく分からなかった記憶がある。

「ええー??いくらなんでも1000日は言い過ぎでしょ!」(-ω-)

 

 

しかし駅まで行くのに日が暮れそうなご老人を見た時に、

「ああ、本当にそうなんだな。これなら確かに若い人が本気を出せば1000倍は多くのことができそうだ」

と感じるようになった。

 

 

ある日電車の中で…

 

また別のある日の話。

上の日よりもさらに1~2年前だったように思う。

 

 

その日電車に乗って座っていたが、ふと正面に目を向けた。

するといろいろな人が座っている中で、一人の老人が目に留まった。

その老人は、こう言ってしまっては申し訳ないが、風貌はとてもきれいとは言えない身なりをしていた。

一見するとホームレスのようにも見えなくはないが、しかし持ち物などを見るにホームレスっぽくはなかった。

髪の毛は灰色でボサボサ、くしを通した形跡は全くない。

顔はしわだらけでヨボヨボ、背中が大きく曲がっていた。

 

 

もちろん綺麗でこざっぱりしたかっこいいご老人もいるとは思うが、この時自分の目の前に座っていた方はこのような風貌だった。

 

 

このご老人を見て、人々は何を感じ、何を考えるだろうか?

 

 

口の汚い人ならば「じじい!汚ねえな!!」などと吐き捨てる人もいるかもしれない。

一目見て、目をそらして、特に何も考えない人もいるかもしれない。

 

 

しかしこの時自分が感じたのは、

 

 

「ああ、自分もいつか、こうなるんだな」(”Д”)

 

 

ということだった。

 

 

年寄り笑うな行く道だもの

 

誰によって言われた言葉かは分からないが、名語録として知られている言葉に以下のようなものがある。

 

「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」

 

 

目の前のご老人を見ながら、このことを深く考えるようになった。

 

 

「そうだ、自分もいつかはこのようになるんだ。

自分もいつかこのように目は見えなくなるし、

髪の毛は白くなるし、顔はヨボヨボになるし、

背中は丸まって、耳も聞こえなくなるし、

頭もぼけていくんだな。

 

 

そうしたら、その時、

老人になってヨボヨボになった時の

<自分の価値>とは何だろうか?

 

 

今はまだ「若い」がゆえに、

会社も雇ってくれるし、お金も稼ぐことができるし、みんなもチヤホヤしてくれる。

しかしこんなにヨボヨボになってしまった自分、

頭もぼけて、動けなくなった<自分の価値>とは

一体なんだろうか??」

 

 

もちろんその時「老人に価値がない」と思った訳ではなかった。

人間として生きている限り、価値がない人間などいないだろうと思う。

 

 

しかしその価値とは一体どこから来るのだろうかと深く考えた。

 

 

ある人は「その人が死んだら悲しむ人がいることだ」という人もいる。

それでは「その人が死んだら悲しむ人が一人もいなければ、価値のない人間」なのだろうか?

 

 

最近は老人の孤独死が問題になっている。

老人が一人で暮らしていて、ある日自宅で何かの拍子で亡くなる。

しかし誰も訪ねてくる人もいないから、ずっと誰も気が付かない。

そうしていて数日経つと悪臭がしてきて、それで隣の人が気づいて通報するようになって発見されるということが増えているようだ。

 

 

若さの価値

 

「若さ」というのはとても価値があるものだ。

(これは常識的にも、社会的にも、経済的にも、生物学的にもそうだ。)

「若い」というだけでこれからいくらでも成長できるし、なんでもできる可能性はある。

以前クライアントのある60歳くらいの建設会社の社長と話していた時に年齢を聞かれ、年齢を答えたら「いや~荊木さん、まだまだこれから何でもできますね!」と言われたことがある。

自分としてはそこそこ成長してきて、ある程度「自分のできること、できないこと」が見えつつあるように感じていたが、そう言われた時に新鮮な感覚になったことを覚えている。

「ああ、60歳くらい人生を生きてきた人からすると、自分はまだまだ何でもできる可能性があるんだな」と身が引き締まった気がした。

 

 

「若さ」はとても価値があるものだ。

しかしこれは持論だが「<若さ>自体を誇ることは愚かなことだ」と思っている。

なぜなら、

<若さ>は全ての人に与えられるものであり、また

<若さ>は必ず失うものだからだ。

 

 

だから「私は若いのよ!」と若さ自体を誇ることは愚かなことだと思う。

より正確にいうと「誇れるものではない」とも言える。

全ての人が持っていたものであり、またその人もいずれは必ず失うものだからだ。

 

 

だから「誇れること」があるとするならば、

その<若さ>を用いて、一体何を成したのか?一体何を残したのか?

これを誇るべきであろうし、それはまさに誇ることができるものだと思う。

 

 

ご老人を笑うことはできまい。

もし笑いたいのならば、そのご老人が過去<若さ>を用いて、何を成したのかを聞いてからにするのが礼儀だろう。

そして笑いたいのならば、自分自身が<若さ>を用いて、何を成したのかを振り返ってからにするのが知恵だろう。

 

 

 

「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」

肝に銘じて生きたいものだと思う。

 

 

 

 

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