【講演会log】20160522「国際人カフェ」

【講演会log】20160522「国際人カフェ」

 

以下は2016年5月22日に行なわれた講演会「国際人カフェ」のlogです。

これは「真の国際人とは?」というテーマで数人がパネラーとして話す場だったが、自分も呼ばれて話をしてきました。

前半部分は自己紹介とタイに住んでいた時の話だったので、その部分はカットして、以下に記載します。

 

※記載するため語調は断定口調に直しています。

※記載するために修正削除した部分はありますが、概要を掴んで頂けたら。

 

 

真の国際人とは?

 

今日のテーマは「真の国際人とは何か?」。

この短い時間の中でそれについて話すのは不可能なので、今日は少しでもヒントになる話ができればと思う。

 

 

最近「グローバル化」が進んでいる。今は多様性の時代だ。

インターネットの発達によって、自分の家にいても地球の裏側で何が起こっているのか、知ることができる。

GoogleEarthを使えば、地球の裏側の家の屋根が何色なのかまで分かる時代になった。

 

 

今は多様性を受け入れる時代になった。

ひと昔前までは、それこそ日本が鎖国していたような時代は、

アメリカ人はナイフとフォークで食事をすると聞いたら

「なんだって?そんなの理解できない!」(‘Д’)

というような人もいた。

 

しかし今の時代にそんな人はもうほとんどいないし、

「何言っているんだ。料理はお箸で食べるべきであって、ナイフとフォークなんて邪道だよ!」という人はほとんどいない。

もし仮に今、ジャングルの奥地にいる何とか族は、バナナの葉っぱでスープを飲むんだよと言われても、

「ふうん、変わった民族もいるもんだな~」(´・ω・`)

と思うだけだ。

「おいおい、そんなのありえないだろう!」という人はほとんどいない。

そうではないだろうか?

 

 

個人的に私は「日本人」を研究しているが、

日本人は「受け入れる」ということを大事に思う。

「相手の気持ちを受け入れることが大事だ」とよく言う。

世界中の国々がお互いのことを受け入れたら、世界平和が成されると思っている人が多い。

いろいろな人に会って、いろんな人の考えを聞いてみたが、そういう人が多い。

 

 

しかしそういう多くの人の話を聞いていて、だんだん分かってきたこと、「あれ?」と感じてきたことがある。

 

 

 

それは、多くの人が言う「(相手を)受け入れる」という言葉の本当のところの意味は

「(相手を)理解する」というよりは

「(相手を)批判しない」に近いのではないかということだった。

 

 

実際そのことを本当に理解することはとても難しいことだ。

例えばインドでは右手で料理を食べる。これを本当に理解するのは実際簡単なことではない。

「ああ、インドの人は手でごはんを食べるんだね」と批判しないことはとても簡単だ。

しかし実際に自分が手でごはんを食べろと言われたら、抵抗がある。

 

 

 

首長族をご存じだろうか?

首長族の世界では首の長い人が美人だ。

みなさんは理解できるだろうか?(´・ω・`)

本当に理解しようとしたら、とても難しい。

しかし「へ~、首長族は首が長い人が美人なんだな。変わっているな」と批判しないのは簡単だ。

 

 

批判しない≒無関心?

 

実際、批判しないことはとても簡単だ。

何も考える必要がない。

「私はこうなんだ」(*‘ω‘ *)

「へー、そうなんだ」(-ω-)と否定しないのはとても簡単だ。

何を言われても「あー、あなたはそうなんだね。分かったよ」と言うだけだ。

とても簡単だ。

 

 

しかしそれはただ「無関心」なだけではないだろうか?

 

 

今は人それぞれ、多様な価値観を許容する時代になった。

最近はあまり他人に干渉しない時代になった。

もちろん干渉し過ぎるのも嫌だが、

しかしそれが間違った方向に進み、ただお互いに「無関心な社会」になっていってはいないだろうか?

 

 

極端な例をあげると、

もしあなたの友人が「私自殺しようと思う」と言った時、

「ああ、そうなんだね。そういう価値観もあるよね」と言うだろうか?

もしそういうなら、それは友人と言えるだろうか?

それはただの無関心ではないだろうか?

 

 

例えば友人が「あいつむかつくから、殺そうと思う」と言った時、

「ああ、そうか。今は多様な価値観を許容する時代だからね。そういう考え方もあるよね。うん、分かるよ」

と言うだろうか?

 

 

「あなたはそうなんだね」「あなたはそうするんだ」と他人を批判しないことはとてもとても簡単だ。

しかし実はそれは自分に軸がないだけなのではないか。

自分に軸がないから、批判すべきものと、批判すべきでないものの区別がつかないから、否定しないという一番無難な選択肢を選択しているだけではないか。

さきほどの例で言えば、友人が殺人をしようとしていたら、止めてあげるべきではないだろうか。

友人が人を自殺しようとしているなら、話を聞いてあげて、力になってあげて、説得すべきではないだろうか。

もしかしたら「自殺したいなら放っておけよ」という人もいるかもしれないが、そういう人は「他人」だろう。

自分の知っている人、親しい友人、家族、恋人が自殺しようとしていたら、止めようとするのが普通ではないだろうか。

 

 

最後に

 

今日は「真の国際人とは何か」のヒントになる話をしていた。

「アメリカ人はそうなんだ。ふうん、中国人はそうなんだね。あなたはそうなんだ」と批判しないこと自体は簡単だ。

多様性を受け入れること自体は大切なことだが、それがただ「無関心」になってはいないだろうか?

それで真の国際人になったとは言えまい。

 

 

真の国際人になるためには、

本当の意味で多様な価値観を受け入れるためには、

物事の是非を判断する軸が必要だろう。

ただ「批判しない」というのではなく、本当の意味で受け入れるべきものは受け入れ、正すべき部分は正していく「軸」が必要になるだろうと思う。

 

 

 

今日の話を聞いて、

今一度自分自身を振り返ってみて頂ければ幸いに思う。

 

 

 

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