数学から学べること④~言葉の持つ曖昧さ~

数学から学べること④~数学は国語だ~

 

数学から学べる本質的な思考を、人生の他のところに応用する「数学から学べることシリーズ」第4回

前回と前々回

「数学から学べること③~式は<文章>だ~」

「数学から学べること②~<数学><国語><音楽>の共通点~」

というテーマで書いた。

 

 

<数学><国語><音楽>の共通点について書いたが、今日は「式は<文章>だ」に引き続き、

「<数学>と<国語>の違う点」もまた書いてみる。

 

 

そしてとても不思議なことに「数学→国語→音楽→数学」と戻ってくることになる。Σ(・□・;)

やはり全ての学問は繋がっているんだなと感じざるを得ない。

今日は書けるところまで書いてみたい。

 

 

数学は国語だ

 

自分は高校時代に数学が好きになったが、そのきっかけを与えてくれた先生がいた。

その先生のおかげで数学が好きになったし、クラスの数学の成績もとても上がったのを見た時に、

「ああ、やはり教師が生徒に与える影響は大きいんだな」( ゚Д゚)

ということを感じるようになった。

いい教師に出会い、その教科が好きになったり、

合わない教師に出会って、その教科が嫌いになったりする。

 

 

その先生は最初の授業の時に、一人一人の写真をデジカメで撮っていたことをよく覚えている。

恐らく生徒の顔と名前を覚えるためにしたのだろうと思う。

そういうことをしていた先生はその人以外には知らない。

 

 

その先生はとてもいい先生過ぎたのか、

自分たちを受け持つようになって半年くらい経った時に

「教育委員会」に引き抜かれて行ってしまった。。。(‘Д’)

ああいういい先生が教育委員会に行くことも大事だとは思うが、

現場に取り残された生徒たちとしては非常に残念だった。

 

 

さて、その数学を好きになるきっかけをくれた先生がよく言っていたのが、

「数学ができる人は国語もできる」だった。

なぜなら数学を理解するためには「文章読解力」が必要だからだ。

この言葉の意味を、数学を学ぶにつれてもっとよく分かるようになった。

 

 

数学のwell-defined性

 

「数学から学べること②~<数学><国語><音楽>の共通点~」でも書いたが、

私たちが日常で使う<言葉>は、非常に定義が曖昧だ。

しかしこの曖昧さがむしろコミュニケーションをスムーズにしてくれているとも言えるから、文句も言えない。

 

 

例えば「赤」という言葉が指し示す色の範囲は広い。

実際日本人は「虹は何色?」と聞くと「7色」と答える。

「七色の光」などと言ったりするし、そのように教えられるからだ。

しかしアメリカ人は「6色」と答える。

ロシアでは「4色」だというと聞いたことがある。

つまり色の指し示す範囲の違いがあるということだ。

どこまでを「赤」と呼ぶのか、曖昧だ。

 

 

数学的に言うと、それは「well-definedでない」という。

「well-definedでない」、つまり「正しく定義されていない」という意味だ。

(これは厳密に言うと、集合論で出てくる概念。

商集合間、同値類間の写像を定義した時に、代表元の選び方に依存せず、一意に写像が定義されているかを言う言葉だが、ここではちょっと大きい意味で使ってみた。)

 

 

サイエンスにおいて「曖昧さ」というものは禁物だ。

だからこそ科学という本は数学という言語で書かざるを得なくなる。

だから数学の言語で話すと、相手に一意的に、100%言いたいことを伝えることができる。

曖昧さを100%取り除いて伝えることができる。

これはやってみると嬉しいことでもある。

「言いたいことが伝わらない~~!」というもどかしさを感じたことがある人は多いかもしれないが、

数学においてはそういうことがない。

(「これを数学的にどう表現したらいいだろうか??」と悩むことはあっても)

これは数学の言語を学ぶ一つの良さであり、強味と言えると思う。

 

 

言葉の持つ曖昧さの面白さ

 

しかしずっと数学を勉強していたので、

だんだん「言葉の持つ<曖昧さ>の面白さ」にも気づくようになった。

 

 

例えば「赤」というともちろん「色」を差す言葉だが、

言葉には「イメージ」というものがある。

「赤」というと、どういうイメージがあるだろうか?

ある人は「火」をイメージするので「熱い」というイメージ、熱い感じがするという。

自分は暗い赤は「血」をイメージするので、どちらかというと「冷たい」イメージがするし、また「鋭い感じ」がする。

あなたはいかがだろうか??

 

 

このような感覚のことを「共感覚(synesthesia)」という。

これがとても優れている人(発達している人)は、

音を聞いたら「色」が浮かんだり、

絵に「味」を感じたりする。

この「共感覚」は実際誰もが持っている感覚だ。

例えば「音が大きい、小さい」という表現も、実は共感覚があるが故の表現だ。

「音の振幅の長さ」を形を表す「大きい、小さい」で表現しているからだ。

しかしそれが極端になっている人もいる。

 

 

ずっと数学を学んでいたので、このような「言葉の持つ曖昧さからくる多様なイメージ」が面白くなった時があった。

少しかっこよく表現してみると「言葉の持つ非well-defined性」とも言えるだろうか。

(お、なんか学術論文っぽいてかっこいい☆彡(*‘ω‘ *))

 

 

それが面白くなって、小説を書いたり、詩を書いたりしていた時期があった。(詩は今も書いているが)

「冷たい」と書かなくても「冷たい詩」は書けるし、

「熱い」と書かなくても「熱い詩」は書ける。

それが不思議で面白かったことがあった。(´・ω・`)

それで本屋で詩集を見てみたりしていた時期があった。

 

 

 

今日は「数学の表現」と「言葉の表現」の違いについて短く書いてみた。

今日の内容に結論はなく、次回に続くようになるのでお楽しみに☆

次回は音楽にからめても書いてみたい。

 

 

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