時間的自由を得ることについて~時間の概念を持たない民族「アモンダワ民族」~

時間の概念を持たない民族「アモンダワ民族」について

 

ミンガラーバー、シンジュンです。(・∀・)

 

 

現代人はとにかく特に時間に追われて生きています。(´・ω・`)

しかし現在「時間の概念を持たない民族」が地球上に存在しているという話を聞いて驚きました。(‘Д’)

昔何で読んだのかは忘れてしまいましたが、一体時間の概念を持たないとなると、どういう生活になるのだろうかと興味がわいて調べてみたことがあります。( ˘ω˘ )

 

 

今日はこの不思議な民族「アモンダワ族」について紹介し、

そこから私たちの持つ「時間の概念」について考えてみます。

そしてさらに「<時間的自由>とはどういうものか」ついても考えてみたいです。( ˘ω˘ )

 

アモンダワ族について

 

アモンダワ族(Amondawa)はアマゾン奥地に住む先住民族の一つ。

アモンダワ族が世界で発見されたのは約30年前の1986年だそう。当時は150名あまりいたようです。

 

 

そして当時彼らを調査に行った調査隊が驚いたのは、彼等の話す言語には「時間」や「日付」「年月」を表す言葉が無かったこと。

(一体どうやって「無い」ということが分かったのかも興味がありますが。(;^ω^))

 

 

「言葉がない」というのは「概念が無い」ということです。(‘Д’)

つまり彼らは「時間の概念を持たない民族」だということになります。

だから「明日」「昨日」「今日」「午前中」「午後」「今週」「来週」「1年後」「2017年10月1日」などもありません。

時間の概念がないので、当然カレンダーも無いし、時計も無いということに。(; ・`д・´)

 

 

彼等にある時間の流れの概念、つまり彼らが判断する「時間が流れた」という基準は、

「昼」と「夜」

「雨季」と「乾季」(雨季以外)

だけだと言います。

 

 

…なんてざっくりな!!Σ(・□・;)

 

 

時間の概念がないので、彼らと「待ち合わせする」ことは不可能です。(‘Д’)

「また後でね~」という挨拶もない。

「5分待ってね」とも言えない。

「ね~聞いてよ~、昨日さ~、マジさ~超うざかったんだけど~~」みたいな会話も無い。

(これは無くてもいいかも。( ˘ω˘ ))

 

 

「概念が無い」ということは、彼らにとって「概念が必要ない」ということでもあります。(‘Д’)

 

 

「よくそれで生きていけるな」(‘Д’)

と思いますが、恐らく彼らは「待ち合わせ」などしないのでしょう。

 

 

日本では電車に乗る時「時刻表」を見るし、次の電車が何時かを調べて、その時間まではぶらぶらしていたりもします。

しかしアジアのゆったりとした国に行くと、電車に時刻表などはなく、

とりあえず駅に向かう

駅に着いたら「(何時に来るか分からないけど)電車が来るまでずっと待つ」

電車が来たら乗る

という感じで移動したりします。

そのゆったり感が「旅」をする時には欲しいものだと思ったことはありますが。(;^ω^)

 

 

アモンダワ族の母親は「お父さん、今日は何時に帰ってくるのかしら?」という疑問もないのでしょう。

とりあえずアモンダワ族のお母さん的には、

「太陽が沈む前に帰ってくればいい」( ˘ω˘ )

夫的には、

「太陽が沈む前に帰ればいい」(‘ω’)ノ

という概念しかないことになります。

 

 

アモンダワ族の夫婦は、みんな懐が大きいようです。(*‘ω‘ *)

 

時間の概念が無いことについて

 

さて、アモンダワ族について何かで読んだ時に、その文章の著者は彼らを「時間という鎖から解き放たれた幸いな人たち」というように称していました。

そしてインターネットで検索してみると、アモンダワ族をうらやましいと言う人たちも多いです。

確かに時間に縛られないゆったりとした生活というのは、せせこましく生きている現代人としてはうらやましく見えるかもしれません。

自分も最初聞いた時は「ああ、そういう生活もいいな~」と思ったことはありました。( ˘ω˘ )

 

 

 

しかしもう一歩踏み込んで考えてみると、、、

 

 

「時間の概念が無い」ということが「時間から解放されること」なのでしょうか?(´・ω・`)

 

 

考えてみると、これはまるで、

「貧しい国には学校が無いから、毎日学校に行かなくてもよいから、幸せな人たちだ」

と言っているようなものではないだろうか?と思うようになりました。(‘Д’)

 

 

時間の概念が無いから解放されているように見えますが、

実際は「時間の概念が無いせいで、ものすごく生活が限定されている」のではないでしょうか?(”Д”)

 

 

そもそも「会話の内容」からしてものすごく限定されています。(;´・ω・)

昨日の話はできないし、明日の予定も立てられないし、将来の夢もない。

お正月もクリスマスも誕生日もないし、記念日も無い。

<将来>が無いから、将来に向けて何かを備えるなどはしないのでしょう。

人と待ち合わせることもできないから、一緒に何かをすることが難しいです。(;´・ω・)

 

 

ある意味最大の限定だと思うのは、彼らは「アモンダワ族を出て行けません」。

もちろん「時間の概念」を含めていろいろなことを学べば出ていけるかもしれませんが、今のままでは他の地域に適応することができません。

「出ていく必要が無い」ということはあっても、出ていけないという不自由さはあります。

 

 

そう考えてみると、これが「解き放たれた状態」なのだろうか??と思うようになりました。(´・ω・`)

 

 

ある研究者は「<時間>と言う概念が、人間に絶対必要なものではないと言う証明だ」と言っていた人もいました。

これはちょうど車に乗っていない原始人を見て、

「<車>というものが、人間に絶対必要なものではないと言う証明だ」

と言っているようなものではないでしょうか。(‘Д’)

もちろん車が無くても生きていけるし、大昔、人類は火もなく生きていました。

 

 

「<車>が人間に絶対必要かどうか」を考えるよりももっと大事なことは、

「<車>が人間に及ぼした影響」であり「<車>が人間に与えた発展」ではないでしょうか。(‘;’)

車ができることによって、どれだけ物流や交通が発達したのか。

これは議論するまでもありません。(; ・`д・´)

 

 

それと同じく、私たちが考えてみるべき点は、

「<時間>が人間に絶対必要かどうか」よりは、

「<時間の概念>が人間に及ぼした影響」であり「<時間の概念>が人間に与えた発展」ではないでしょうか?

 

 

時間から解放されるためには?

 

時間の概念が無くなるからと言って、それで時間から解放される訳ではありません。(´・ω・`)

 

 

学校がなくなれば、一時的に「学校に通わなくてもいいという自由さ」はあるように見えます。

しかしそれによって「教育を受けること」ができず、

それによってより高い知識、技術を学ぶことができず、

人生の選択の幅がものすごく限定されてしまいます。

 

 

私は師匠から、

「本当の自由」とは「治めること」からくる

と学びました。( ˘ω˘ )

 

 

<時間の概念を捨てること>で「時間的自由」を得ようとするのではなく、

<時間を治めること>で「時間的自由」を得ることが、より根本的な方法です。(・∀・)

 

 

海に行かないようにするのではなく、

泳ぎ方を学ぶことが、より根本的な解決方法です。(・∀・)

そうしたら、海の楽しさを存分に味わうことができるようになります。

 

 

車に乗らないことで交通事故を防ぐのではなく、

車の運転方法と、道路交通法を学び順守することで交通事故を防ぐことが根本的な解決方法です。(・∀・)

 

 

あとは「どう時間を治めるのか」という問題だけが残されました。( ˘ω˘ )

これについては随時またいろいろなことを通して考えていきたいです。(‘ω’)ノ

 

 

最後に

 

アモンダワ族を通して、「時間の概念」について考えるよい機会を得るようになりました。(*‘ω‘ *)

次回、もう一つアモンダワ族の人々の興味深い特徴を通して「時間と密接に結びついている概念」について書けたらと思っています。

 

 

時間を捨てることで解放されるのではなく、

時間を治めることで、時間から解放される私たちになりたいものです。(*‘ω‘ *)

 

【今日の二言まとめ】

1.時間を治めることから<時間的自由>が来る。

2.アモンダワ族の夫婦は<器>が大きい。(‘Д’)

【続きの記事】

時間の流れを感じる<もの>~時間の概念を持たない民族「アモンダワ民族」~

 

時間的自由を得ることについて~時間の概念を持たない民族「アモンダワ民族」~” に対して1件のコメントがあります。

  1. ひゅご より:

    まとめ、そこぉ!?
    確かにアモンダワ族、器デカって思いましたけど。。。

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